第4回 数字では測れないもの
ぼくの疑問
「数字だけで、人は測れるのだろうか。」
最近、そんなことを考えるようになった。きっかけは、ぼくが受けた知能検査だった。結果はIQ98。数字だけを見れば、ぼくは知的障害には当てはまらないということになる。けれど、ぼくには毎日の生活の中で困ることがたくさんある。人の話を理解できないことがある。書類に何が書いてあるのか分からないことがある。手続きの説明を聞いても、頭の中が真っ白になってしまうことがある。分からないから聞きたい。でも、何が分からないのか分からない。だから質問することもできない。そのたびに、「どうして自分だけできないのだろう」と思いながら過ごしてきた。知能検査では、「知的障害ではありません」という結果だった。でも、その数字だけでは、ぼくが毎日感じている困りごとや生きづらさは説明できないように思えた。
ぼくが本当に知りたかったのは、自分が知的障害なのかどうかではない。どうしてこんなにも生きづらいのか。どうして周りの人には当たり前にできることが、自分には難しいのか。その理由を知りたかったのだ。
IQ98という結果
ぼくは知能検査を2回受けている。1回目は大学病院だった。足が動かなくなり、心療内科を受診したときに受けた検査で、そのときはIQ100くらいと言われた。そして今年1月、今通っているメンタルクリニックでも、もう一度知能検査を受けた。結果はIQ98だった。2回とも結果はほとんど変わらなかった。数字だけを見れば、ぼくの知的な能力は大きく変化していないということになる。でも、その結果を聞いても、ぼくはあまり驚かなかったし、安心したわけでもなかった。なぜなら、検査の数字がどうであっても、毎日の生活で感じている困りごとは変わらなかったからだ。人の話が理解できないことがある。書類を読んでも内容が頭に入らないことがある。手続きの説明を聞いても、何をすればいいのか分からなくなることがある。そのたびに、「どうして自分だけこんなに難しいのだろう」と感じてきた。
知能検査は、その人を理解するための大切な手がかりだと思う。でも、それだけでは見えてこないこともあるのではないだろうか。ぼくは、この検査結果をきっかけに、数字だけでは表せないものがあることを考えるようになった。
分からないこと
ぼくは昔から、人の話を理解することが苦手だった。小学生の頃は、それほど困ることはなかった。先生が教科書を読んでくれたので、分からないところがあっても何とか授業についていくことができた。しかし、高校に入ると状況は大きく変わった。教科書の文字は小さくなり、授業ではプリントが増えた。先生は教科書を読むことが少なくなり、自分で読んで理解することが求められるようになった。ぼくは、その頃から少しずつ授業についていけなくなった。大学ではさらに苦労した。通信制大学に入学したものの、教科書を読んでも何が書いてあるのか分からない。レポートを書こうとしても、何を書けばよいのか分からない。考えがまとまらず、結局、一度もレポートを提出できないまま終わってしまった大学もあった。
仕事でも同じだった。利用者さんと関わることは好きだったが、記録を書くことが苦手だった。頭の中には出来事があっても、それを文章としてまとめることができない。一枚の記録を書くのに何時間もかかることがあり、「どうして自分だけこんなに時間がかかるのだろう」と悩んだことも少なくなかった。
今振り返ると、ぼくが困っていたのは「知能が低いから」ではなく、話を理解したり、情報を整理したり、自分の考えを言葉にしたりすることの難しさだったのかもしれない。そして、その困りごとは、知能検査の数字だけでは見えてこないものだったのだと思う。
今のぼく
ぼくは、ときどき考えることがある。もし今、もう一度知能検査を受けたら、どんな結果になるのだろうか、と。大学病院で検査を受けた頃のぼくは、まだ今より話すことができていた。今年一月にメンタルクリニックで検査を受けたときも、言葉は出にくかったものの、今ほどではなかった。
それから数か月が過ぎた今、ぼくは家族を相手にしても言葉が出ないことがある。伝えたいことは頭の中にあるのに、うまく言葉にならない。「あー」や「うー」だけになってしまうこともある。初対面の人とはほとんど話すことができず、質問の内容は分かっていても、どう答えればよいのか分からず固まってしまうこともある。
そんな今のぼくが知能検査を受けたら、以前と同じように力を発揮できるのだろうか。その答えは、ぼくにも分からない。結果は変わらないのかもしれないし、変わるのかもしれない。でも、たとえ結果が同じだったとしても、今のぼくが毎日の生活で感じている困りごとや生きづらさまで、ひとつの数字だけで表すことはできないと思っている。
内田博仁さんとの出会い
ぼくが「数字だけでは人は測れないのではないか」と考えるようになったきっかけの一つが、自閉症の高校生作家、内田博仁さんだった。ぼくがエッセイを書こうと思ったのも、内田さんの影響が大きい。内田さんは話すことができない。それでも、その文章には人を引きつける力があった。読んでいると笑顔になったり、考えさせられたり、ときには自分のことのように感じたりすることもあった。
ぼくは長い間、「話せること」と「頭の良さ」は同じようなものだと思っていた。でも、内田さんの文章に出会って、その考えは変わった。言葉として話せなくても、頭の中ではたくさんのことを考えている人がいる。周りには伝わらなくても、その人だけの豊かな世界を持っている人がいる。文章を読んでいるうちに、人は話せるかどうかや、数字だけでは測れないのだと思うようになった。その後、内田さんが重度知的障害と判定されていることを知った。ぼくは専門家ではないので、その判定について何かを言える立場ではない。ただ、そのことを知っても、ぼくの中で内田さんの文章の価値が変わることはなかった。むしろ、人は検査の結果や数字だけでは分からないものを持っているのだと、あらためて感じたのである。
ぼくが本当に伝えたかったこと
この記事を書きながら、ぼくはあらためて自分に問いかけていた。本当に伝えたかったことは何だったのだろう、と。考え続けるうちに、その答えが少しずつ見えてきた。ぼくは、自分の障害を重く見てほしいわけではないし、「本当は知的障害なのではないか」と言いたいわけでもない。ただ、IQやWAISの結果だけでは、その人が毎日の生活でどんなことに困っているのかまでは分からないことがあると思うのだ。
発達障害はグラデーションがあると言われている。同じ診断名でも、一人ひとり困りごとは違う。同じIQでも、生きづらさは一人ひとり違う。だからこそ、本当に見てほしいのは数字ではなく、その人がどんなことで困り、どんな支援を必要としているのかということではないだろうか。検査の結果や診断名は、その人を理解するための大切な手がかりである。しかし、それだけでは見えてこないものもある。ぼくが本当に伝えたかったのは、その人の「困りごと」を正しく見てほしいということなのである。
ぼくなりの答え
この記事を書きながら、ぼくは自分自身についてあらためて考えることができた。正直なところ、今でも分からないことはたくさんある。どうして自分にはこんなにも苦手なことが多いのか、どうしてこんなにも生きづらさを感じるのか、その答えはまだ見つかっていない。これから先も、簡単には見つからないのかもしれない。
それでも、こうして文章にすることで、自分の気持ちや困りごとを少しずつ整理できるようになった気がしている。そして、その積み重ねが、いつか誰かに自分のことを理解してもらうきっかけになるかもしれない。だからぼくは、これからも書き続けていこうと思う。数字では測れないものがあることを、そして、一人ひとりの「困りごと」を正しく見てもらえる社会になってほしいという願いを込めて。

