『自閉症のぼくは今日もnoteをかきつづける』 第7回「『代弁者』になれなくても」

連載第7回 「代弁者」になれなくても


診察室のまえで
診察の日が近づくと、ぼくはいつも同じことを考えていた。「今日は先生に母の様子を伝えよう」と。母は病気の影響で、自分の体調や困りごとをうまく説明できないことがある。だから、本当ならぼくが代わりに先生へ伝えたいと思っていた。最近の体調はどうだったか、食事は食べられていたか、夜は眠れていたか、困っていたことは何だったか。診察の前になると、そんなことを一つひとつ思い返しながら、頭の中で話す順番まで考えていた。診察室へ向かう車の中でも、「今日は大丈夫。今日はちゃんと話そう」と何度も自分に言い聞かせていた。けれど、その決意は診察室へ入った瞬間に崩れてしまう。先生の顔を見ると頭の中が真っ白になり、さっきまで整理していた言葉が一つ残らず消えてしまうのだ。何か話さなければと思うほど喉は固まり、口を開こうとしても声が出ない。ようやく一言話せそうになった頃には、診察はもう次の話題へ進んでいる。結局、母が自分で話し始め、ぼくは何も言えないまま診察室をあとにする。「今日も話せなかった」という悔しさを抱えながら帰るのに、次の診察が近づくと、また母の力になりたいと思って準備を始める。そうしてぼくは、診察のたびに同じ決意を繰り返していた。


二つのこと
診察が終わると、母から「先生は何て言っていた?」と聞かれることがあった。ぼくは答えようとするのだが、ぼくが理解していた内容と、母が理解していた内容が食い違っていることが少なくなかった。何度も診察を繰り返すうちに、ぼくはひとつの理由に気づいた。ぼくは診察が始まる前から「今日はこれを伝えよう」と頭の中で何度も考えていて、診察が始まってからも「まだあのことを話していない」と考え続けてしまう。先生の声は耳には聞こえているのに、その言葉を理解する前に次に自分が何を話すかを考えてしまうのだ。反対に、先生の話を聞くことに集中すると、今度は母の様子を伝えるタイミングを逃してしまう。ぼくには、「母の代わりに伝えること」と「先生の話を正しく受け止めること」の二つを同時に行うことができなかったのである。そのことに気づいたとき、ぼくは母の代弁者にはなれないのだと受け入れた。それは母を大切に思っていないからでも、力になりたくないからでもない。ただ、当時のぼくには、その二つの役割を同時に果たすことがどうしてもできなかったのだ。


母の一言
診察が終わったあと、母から「おまえは何も思っていないのか。病気に対して疎すぎるんだよ。」と言われたことがある。その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられるような苦しさを感じた。ぼくは何も言い返すことができなかった。言い返さなかったのではない。言葉が出なかったのだ。母の横で黙って座っているぼくの姿は、病気に関心がないように映ったのかもしれない。でも、本当は違った。診察のたびに母の様子を思い返し、何を伝えようかと必死に考えていたのはぼくだった。「何も思っていない」のではない。「思っていても伝えられない」のだ。ぼくの苦しさは、どうしても母には伝わらなかった。


ぼくの心配
母は「病気に対して疎い」と言ったけれど、ぼくは母のことを心配していなかったわけではない。「今日は調子どう?」と自分から言葉で尋ねることは苦手だったけれど、ぼくは母の顔色や表情、歩き方を見ながら「今日は少しつらそうだな」「今日は元気そうだな」と感じ取っていた。言葉で確認しなくても、ぼくなりに母の変化を見続けてきたのだ。また、ぼくは情報や刺激が一度にたくさん入ってくると、頭の中がいっぱいになり、人の話を受け止められなくなってしまうことがある。そんなときに母が病気の話をしてくれても、耳には聞こえているのに頭に入ってこないことがあった。本当は聞きたいのに体がそれを受け付けてくれないもどかしさに、ぼくは「どうしてちゃんと話を聞けないのだろう」と自分を責め続けていた。


沈黙の理由
ぼくは、話せないことで「何も考えていない」「興味がない」と誤解されてきた。でも本当はその逆で、伝えたいことがあるからこそ言葉が出なくなってしまうのだ。ぼくは話す前に、相手がどう返事をするのか、その返事に自分は何と返すのか、その次はどうなるのかまで、頭の中で何通りもの会話を組み立ててしまう。まるで将棋の棋士が何手も先を読むように、ぼくの頭の中では会話が始まる前からいくつものやり取りが進んでいく。その間にも現実の会話は進み、頭の中の会話と目の前の会話が追いつかなくなり、ようやく一つの答えがまとまった頃には話題がもう次へ進んでいる。そして何を出せばいいのか分からなくなり、黙ってしまうのだ。ぼくの沈黙は、何も考えていない沈黙ではない。考えすぎた末の沈黙なのである。


書くということ
ぼくは、母の代弁者にはなれなかった。診察室で伝えられなかった思いがたくさんあり、今でも「あのとき違う自分だったら」と考えることがある。けれど、頭では分かっていても、体が言うことを聞いてくれないもどかしさを抱えていたぼくには、それが限界だったのだと思う。だからこそ、ぼくはこの文章を書いている。診察室では伝えられなかった思いも、書くことなら一文字ずつ届けることができるからだ。ぼくは、母の代弁者にはなれなかった。目の前にいる大切な人の言葉すら、その場で汲み取って伝えることができなかった。けれど、この経験を通して「話せない人にも、その沈黙の向こう側に伝えたい思いがある」ということは伝えられるかもしれない。この文章が、誰かの見方を少しだけ変えるきっかけになれば、それ以上にうれしいことはない。


後日談 ― 終戦の日 ―
この記事を公開しているのは8月15日。終戦の日である。このエッセイを書き終えて2回めの最終校閲が終わったときに気がついた。

終戦から81年。ぼくの祖父母は終戦後に生まれているため、戦争そのものを知らない。彼らの母や祖父から聞いた話でしか戦争を知らないのである。物心がついたときを5歳くらいとすると、戦争を知っている人は85歳以上になる。当時中学生というと93歳だ。

これから年を重ねるにつれて、戦争を実際に体験した人はこの世にいなくなってしまう。ということは、これからこの世を生きていく人が戦争を次の世代へと語り継いでいく必要があると思う。ただ、ぼくたちは戦争を実際に体験していないし映像を見たり、体験した人の話を聞いただけである。ゆえに、うまく伝えられるかはわからない。もしかしたら違うふうに伝わってしまうかもしれない。

実際に戦争を体験した方々の「代弁者」になれるかどうかはわからないが、実際に体験した人がまだ生きている今の時代だからこそ、しっかりと実際に体験した方々から思いを受け継ぎ、次の世代へと語り継いでいく準備が必要なのかもしれない、と思った今日この頃である。